「令和の怪物」と呼ばれた、千葉ロッテマリーンズの佐々木朗希(ささき ろうき)選手。
佐々木朗希選手の父の仕事は葬儀屋だったことがわかりました。
父は2011年の東日本大震災の津波で亡くなってしまいました。
津波で他界した後、佐々木朗希選手の兄が父親代わりとなって支えたそうです。
今回は「佐々木朗希の父は葬儀屋だった!津波で他界後は兄が父親代わり」と題しまして、
- 佐々木朗希の父の仕事は葬儀屋
- 佐々木朗希の父が津波で他界
- 佐々木朗希の父は人気者だった
- 佐々木朗希の兄が父親代わり
- まとめ
をお届けします!
佐々木朗希の父の仕事は葬儀屋!
佐々木朗希(ささき ろうき)選手の父(佐々木功太さん)の仕事は葬儀屋でした。
メディアでは佐々木朗希選手の父の仕事を「人生の節目に寄り添う仕事」と紹介されていました。
人生の節目に寄り添う仕事をする、人情あふれる働き者として。
日刊スポーツ
「人生の節目に寄り添う」ということは、葬儀屋さんのことですよね?
佐々木朗希選手の父は「人情あふれる働き者」とあるので葬儀屋の仕事でも、人情味があって感謝される働きっぷりだったのではないでしょうか?
葬儀屋さんの仕事といえば、24時間体制であったり夜中の勤務になったり生活リズムが乱れる大変な仕事だと思います。
佐々木朗希選手の父、佐々木功太さんは不規則な勤務だったにもかかわらず頻繁にキャッチボールをしてくれたそうです。
朗希は凄い!将来、プロになれる
スポニチ
佐々木朗希選手とキャッチボールをしてくれた父は「将来プロになれる!」と予言したそうです。
その予言は大的中!
佐々木朗希選手の父、祖父母は天国で喜んでいることでしょう。
家族のために一生懸命働いて、子どもたちのために一緒にキャッチボールをしてくれたりと絵に描いたような良いお父さんだったのでしょうね。
3人兄弟の佐々木朗希選手、愛情たっぷりで育てられたということがわかります。
佐々木朗希選手の父の仕事は、人生の節目に寄り添う仕事「葬儀屋」で人情あふれる働き者だったそうです。
佐々木朗希の父が津波で他界
佐々木朗希(ささき ろうき)選手の父、佐々木功太さんは2011年に津波によって他界されています。
2011年の東日本大震災の時、佐々木朗希選手は小学校3年生でした。
佐々木朗希選手の自宅は岩手県陸前高田市にありました。
震災の後の津波の時、佐々木朗希選手は学校にいて高台に避難できていましたが最愛の父と祖父母が津波に飲み込まれてしまったのです・・
佐々木朗希選手は小学校3年生の幼い時期に、最愛の父を亡くしてしまったんです。
9歳なんてまだまだ子どもで、お父さんに甘えたりしたい時期ですよね・・
今日は、東日本大震災から丁度11年。
— 鯉する夕立🎏夢もでかいぞセ界の空へ! (@yudachi67koipoi) March 11, 2022
現在マリーンズで活躍する佐々木朗希投手は、震災当時(9歳)岩手県陸前高田市に住んでいて、津波で父親と祖父母を亡くした。
彼は「今ある当たり前のことを当たり前と当たり前と思わず向き合っていけたら」と語る。
彼の心にはいつも、東北の人達の笑顔がある。 pic.twitter.com/zO0WhhTh1V
東日本大震災で父が他界してから11年後の2022年、佐々木朗希選手はインタビューで語ってくれました。
11年経ったんですけど、なかなかその時のつらさとか悲しみは抜けないとは思う。でも今、野球にこうして打ち込めてるのはたくさんの方々の支えがあってだと思うので、支えてもらった方たちには感謝しかないです
スポーツ報知
大切な家族が津波で他界してしまったという悲しみは一生消えることはないでしょう。
今ある当たり前のことや身近にいる大切な人たちのことを、今よりも当たり前だと思わずに向き合ってもらえたらなと思います
スポーツ報知
今、生きていることが当たり前ではないということですよね。
佐々木朗希選手がたくさんのことを乗り越えてきたということが、わかる本当に深い言葉だと思います。
佐々木朗希選手の父、佐々木功太さんと祖父母は2011年東日本大震災の津波によって、他界されていました。
佐々木朗希の父は人気者だった
々木朗希(ささき ろうき)選手の父、佐々木功太さんは町では人気者だったようです。
佐々木朗希選手の自宅があった岩手県陸前高田市では有名だったようです。
夏祭りでは町内会を率先して盛り上げる、太陽のような存在として。
有言実行の人。一緒にやろうという仲間作りが上手な人でした
日刊スポーツ
陸前高田市長が佐々木朗希選手の父のことを熱く語っていました。
町内会を一緒に盛り上げたり町づくりに率先して盛り上げたり、ムードメーカーな方だったのではないかと思います。
々木朗希(ささき ろうき)選手の父、佐々木功太さんは町では人気者だったようです。
佐々木朗希選手の自宅があった岩手県陸前高田市では有名だったようです。
夏祭りでは町内会を率先して盛り上げる、太陽のような存在として。
有言実行の人。一緒にやろうという仲間作りが上手な人でした
日刊スポーツ
陸前高田市長が佐々木朗希選手の父のことを熱く語っていました。
町内会を一緒に盛り上げたり町づくりに率先して盛り上げたり、ムードメーカーな方だったのではないかと思います。
佐々木朗希の兄が父親代わり
佐々木朗希(ささき ろうき)選手は3人兄弟で、1番上の兄が父親代わりになってくれました。
佐々木朗希選手は3人兄弟です。
- 佐々木琉希(りゅうき)
- 佐々木朗希(ろうき)
- 佐々木怜希(れいき)
震災後は母親が1人でまだ幼い子どもたち3人を育ていかなければならくなりましたが、兄の琉希さんが父親代わりとなって弟たちをしつけてくれたそうです。
しかし、兄の琉希さんのしつけはとっても厳しかったそうです。
なんと1度も佐々木朗希選手を褒めたことはなかったそう。
とは言っても当時兄の琉希さんもまだ12歳という少年です。
父が亡くなり、母や弟たちを守り父親代わりになろうと一生懸命だったのでしょうね。
でもその厳しさのおかげで、佐々木朗希選手は兄を超えよう!と野球に打ち込むことができたそうです。
佐々木朗希選手の兄である佐々木琉希さんが、父親代わりとなって弟たちのしつけをしていたということがわかりました。
まとめ
佐々木朗希選手の父の仕事は、人生の節目に寄り添う仕事「葬儀屋」でした。
父である佐々木功太さんは2011年東日本大震災の津波によって他界されています。
佐々木朗希選手の父は、町内で名の知れた人気者で人情あふれる働き者だったそうです。
震災後は母が1人で子どもたちを育てていかなければならず、大変でしたが兄の佐々木琉希さんが父親がわりとなって弟たちをしつけてくれたそうです。
兄の琉希さんのしつけは厳しかったそうですが、そのおかげで今の佐々木朗希選手があるのだと思います。
今後の佐々木朗希選手の活躍を応援したいと思います。